2000年06月号
発行こぶし編集部
第143号
「母の死
私のうつ病
無精ヒゲ」
三田村 幌

・「ボケちゃった母さんの家庭介護日記」最終回
このシリーズも最終回となる。
4月8日朝、我家で私たち夫婦の見守る中、母は死んだ。
享年87歳。
もともと呼吸器が悪い母が父より短命と考えていたのだが、その父が3年前に先に逝った。
父の百日法要の翌日母は救急車で病院に運ばれた。
人工呼吸器を付けなければ死ぬと言われ、それを断ったが命はとり止めた。
しかし進行する痴呆症状のために内科入院は困難となり自宅療養になった。
もとより父の死後の母の希望は「入院して管だらけ(点滴、カテーテルなど)になるのは嫌だ。
自宅で死にたい。
葬式は内輪で」というものだったが。

家族介護で在宅酸素、デイケア、ショートステイを行い、一時は結構元気になったが、痴呆は着実に進行し、今年に入り身体的にも急速に衰弱し、食事摂取も困難になる。
寝込んでしまうとお下の世話も私には出番がない。
目に見えて死期迫る2月は一時点滴で乗り越えたが、3月後半から日々に生命力が低下していく。
私たちは死の直前まで入院等に迷ったが、遂に葬儀に到るまで母の希望は叶えられた。

・家で看取るということ
自宅で死ぬということは多くの老人の願いである。
時代もそれを見直している。
しかし体験してみるとそれは家族に非常に困難を伴うことを実感した。
医者と看護婦という夫婦でありながら。
いや、それ故に結果を予見しながらも様々な治療処置の可能性を考えると罪悪感すら感じてしまう。
もちろん小家族では介護負担も大きく、また死の前日妻が一人の時に母が呼吸困難となり、他に誰もいなくて妻は密室殺人のような恐怖に襲われたという。
妻の看護でそこを乗り越えて、深夜私が帰宅し母に「具合は?」と声をかけると、痴呆の母が真顔で「大丈夫!」と答えた。
この最後の言葉を聴いて、眠りに就く母を見ながら私たちはまもなくこの仕事が終わることを知り、二人で看取れることに安心すら覚えた。
一般的には家で看取る場合に幾つかの条件が必要だろう。
第一に本人の希望と身内の同意と納得。
第二に常に複数の家族が看ていれること。
第三に継続的な往診と訪問看護、十分な介護体制があること。
第四に死の時期が予見できて、その前24時間以内にも主治医が往診できること。
これは死亡診断書という手続き上も必要だが、出来れば傍で主治医から死の瞬間を告知してもえることが一般の家族としても願いとなるだろう。
つまり現代社会の核家族、小家庭において家族に付き添われ安心して自宅で死ぬには、これらを支える医療資源の充実が条件である。

・介護保険の課題
最近こうした在宅終末医療を支えるべく医療保険も整備され、介護保険もそれを念頭に出現している。
母の場合は認定段階で要介護3。
しかしケアプラン作成のためにケアマネジャーが来たときには驚くほど状態は変わっている。
そしてケアプランが出来上がる前に母はこの世を去っていった。
さらに介護保険の問題はマスコミでも指摘されているとおりである。
ひとつには認定の妥当性。
実際に私が母を早い時期に判定したときにも要介護5相当だった。
さらに需要に応え得るほどにサービスが整備されていない。
母のショートステイも初回のころは効果があったが、施設も忙しくなると限界が出る。
また当院に来る患者さんから聴く限り、以前と同じサービスを受けても介護保険下での自己負担は大きく増加している。
そして母の場合のように様態の変化するものに機敏な対応が出来ない例も少なくない。
医師意見書も診療の合間に書くためにすぐには提出できない。
今後の課題は多くて大きい。

・老いと痴呆と介護について
在宅医療介護制度の充実はこうして努力されてはいるが、現代日本での老いと痴呆の介護はまだまだ家族の苦労の連続である。
地域社会の消失、核家族化、福祉からビジネスへの移行、医療介護技術の高度の分化、硬い制度による縛り、介護者の高齢化、介護の経済負担、痴呆への無理解と社会の非寛容、問題は多いが今まで書いたシリーズも参照してほしい。

・私のうつ病
母の初七日を終えて、私はスイッチが入ったように本格的なうつ病になった。
以前に書いたように昨年来軽うつ状態は繰り返していたが、今回はその比ではなくフルボキサミンというSSRI抗うつ剤一日100mgをはじめ多くの薬を副作用に抗しながら今も必死になって飲んでいる。

・「喪失うつ病」と「荷おろしうつ病」
精神分析学のフロイドは親しい人の喪失体験をうつ病の心理機序とする。
一般の方も「お母さんを亡くしたから」と心配してくださる。
しかし正直なところ私は父の時にこそ涙が出たが今回はそうではなかった。
父親は喧嘩もしたが一人の人間が必死に生き死んでいった姿への感動があった。
母にはここ数年、とりわけ痴呆の進行とともにどう気持ち良く余生を過ごさせてあげるかが私たちの課題であり役割であった。
実際、私は両親を引き取ってのこの10年ほどは彼らを看取ることが自分の責任と当面の課題としていたのであり、それを遂に終えて、やはり「荷おろしうつ病」のメカニズムであろう。
喪失という点からするならば「役割喪失」が、尽きかかっていた私のエネルギー状態を露呈させたのだろう。
うつ病になり「死への執着」までこそ症状出現はなかったが、「生への執着」が希薄になる中で、今も老いたゴルの頭を撫でながら「次はオマエを看取るまではトーサンは死ねないからな」と自分にも新たな自分の役割を言い聞かせている。

・うつ病と身体症状
悲哀感は比較的少ない。
しかし無気力、意欲低下、思考力の低下、感動の貧困が著しい。
しかし本格的なうつ病になるとなるほど身体的不調も強くなる。
食欲低下、全身倦怠、易疲労感はもちろん、入眠困難、途中覚醒、早朝覚醒、不快な多夢などの睡眠障害、便秘・口渇などの消化器症状、寝汗・のぼせ・冷え・動悸・胸苦などの自律神経症状も酷い。
顔の皮膚は荒れて、痛くてヒゲソリを当てることもできない。
精神面・全身状態の日内変動は激しく、とりわけ午前中は辛かった。
SSRIの効果発現には時間がかかり、今幾分良くなりつつあるから時間をかけてでもこうして文章を入力できているが、経過中日内変動も様々に動揺し、気分が先に改善しつつあるのに思考行動力が伴わない等は、個々の事例が教科書通りにはいかないことを改めて自分で体験させられている。

・心理面と環境と生理的側面
幾分改善しつつあるとはいえ、これまでの経過は直線的なものでない。
幸い5月初めにはGWの纏まった休みを取ることができていつもより長い湯治に入った。
毎日惰眠と入浴を繰り返していたら「SSRIも意外に速く効く!少し良くなってきた」と感じる。
しかし岩見沢に帰って再び仕事モードに入ろうとすると心身の症状は全て再燃する。
結局、環境やそれへの心の構えによっても症状は動くのである。
うつ病はれっきとした病気である。
神経伝達物質の枯渇という生理学的基礎がある。
従って薬物を中心に治療を行えば治る。
しかしまた環境外界からの刺激も生理状態に影響を及ぼし、心の働きも脳という実体の生理的活動である。
従って日々変わる環境や心の動きの中で治療効果は直線的に現れるわけもなく、またこうした時期には精神療法や環境調整も重要なのである。
これも私の実感である。

・患者としての実感=治療と焦り
私も精神科医としてプロである。
性格もあって服薬は真面目に規則的に行っている。
しかし枯渇した神経伝達物質が回復するには時間がかかる。
それは解っていることだが、何とかしようと焦ってしまう。
あがき急ぐことが間違いであることは十分に知っているはずなのに。
そして仕事場では最大限元気を装ってしまう。
そしてその後にツケが来る。
家でも留守電に対応している自分の元気な声に自分で驚くとともに、その電話の後に物凄い疲労を感じてしまう。
そばで精神科看護婦でもある妻に「その無理がダメなのよ」と怒られる。
彼女にはこの一月「焦りすぎ!あなたプロでしょ」と何度たしなめられたことか。
まあプロでさえこうなのだから、患者さんたちは一層戸惑っているんだろうと、改めて考えた。

・人生の時期と課題
本格的うつ病になると次の心配も出てくる。
履歴効果といってこの大きな気分の波が繰り返す、つまり再発することである。
またうつ病相の後に躁病相が出現する危険である。
そうなると次のうつ病相も一層大きなものになるだろう。
予防には焦らぬこと、あがかぬこと、うつ病相の部分を取り戻そうと考えないこと、元気になったら一層行動を抑制気味にすることである。
患者さんにも、根っからの性格行動パターンだから急には直せないし、まあ二三回の波の中でコツを身につけること、とアドバイスしているのだが。
同僚の中には今の私を見て「やっと普通の人間になった」とからかう者もいる。
なるほど私は今まで慢性軽躁状態だったかもしれないし、一方で自分が典型的うつ病親和性性格(下田気質)であることも承知していた。
しかし暦年齢50代、交通事故後の生物年齢は60代の私に、精神科医経験約30年でいろいろ考えさせられる一区切り、診療所活動の役職のバトンタッチ、両親の看取りなどの一連の出来事、そして本格的うつ病発症というのは、生理的にも社会的にも私の人生にひとつの節目が来ていることを示しているのだろう。
いつまでも若いつもりで「老害」になりかねない同一の人生パターンに固執するよりも、一回限りの人生、今までとは一味違う後半の人生スタイルを考えてみるべき時なのだろう。
10代の時にも、20代の時にもそれぞれの人生の課題があった。
人生にはそれぞれの時期にそれぞれの課題がある。
この点は今の若い人たちにも是非言いたい。
現代の若者にとって未来が見えないという。
なるほど遠い未来は50年余の人生経験からでも見えてこない、ましてや若者には。
しかし若者には若い故の魅力もあり、現在と近未来に自分自身の当面の課題や目標を見出すことはできるだろう。
もちろんいつまでもそれに固執する必要もないのだし。

・人間の死
うつ病には自殺の問題が付き纏う。
私の気分は既に触れたが、両親の死をも見送りながら、改めて生と死を考える。
また最近の17歳の若者による殺人事件や、自分を容易く傷つけてしまう若い患者さんのことも頭に浮かんで。
生きるものには必ず死が訪れて、一方に誕生があり人間の歴史は綿々とそれが引き継がれていく。
自ら死に急ぐことはない。
生きることに何の楽しみがあるのか、しかし楽しみがあるから生きているのでもなければ、楽しみとは一方に苦しみがあるから感じれるものであり、自分の苦しみが味わえなければ、他人の苦しみを想像することも共感することもできない。
しかし自分を傷つけることは苦しみを感じることではなく、周囲を苦しませることである。
人生はリセットの効くゲームの世界ではない。
自他ともに一度限りのこの人生を大切にしたい。
これは精神療法などの話ではなく、私の心からの感想である。

・お礼と「無精ヒゲ」
ともあれこのまで母の老いと死、そして私の不調に対して心配してくださった皆さんに心からお礼を申しあげます。
肌荒れから始まった私の無精ヒゲ、元気になってSSRIを止めたらスパッと剃ろうと思っていましたが、SSRIは長期服用が原則。
一層のこと私自身の「老い」を積極的に認めるつもりで白髪混じりのヒゲをこのまま残そうか・・・・・・。
(完)

・~~~読者の広場~~~
<食のシリーズ13>
『うめぼしの季節』
6月に入ると書店には多くの漬け物特集が組まれた料理の雑誌が並びます。
(これは毎年、本当に同じように・・・。
)特集の中心が「梅干し」の漬け方であって、ぬか漬け、らっきょう漬けの漬け物類、梅を活用した、梅酒、梅ジャムなんかも一緒に載ってます。
いくら野菜が年中出回るようになっても、梅が出回るのは初夏の一時期で、それも梅干しの種類によって大きさや熟度を使い分けたりするので、自分の漬けたい「梅干し」を漬けるのは、日々スーパーの店頭や野菜屋さんを見て歩く位の根性が必要になってきます。
でも、その程の苦労は初歩の初歩であって、作る苦労はまた数倍だったりするので、梅を買ったのは良いけど、梅酒に逃げる事もしばしばです。
(果実酒の中では私は梅酒が一番美味しいと思います・・・言い訳。
)手間暇を考えると梅干しの値段も納得がいきます。
行楽のシーズンを迎えて、梅干しはお弁当やおにぎりの中身にひっぱりだこ。
防腐効果が期待されますし、ちょっと疲れたときに、すっぱいのは特別美味しく感じられます。
梅干しから話は逸れてしまうのですが、美味しい漬け物・・・と言うと私は秋田の農家で食べた漬け物が忘れられません。
稲作農家の現状を視察するために訪問したのですが、小ぶりの茄子漬けを秋田に居る間、がりがりとかじっておりました。
(他にも色々な漬け物が食卓の上にありました。
秋田は漬け物の宝庫です)なんとも言えない甘みと塩味のハーモニー。
朝昼晩の3食とお茶請けに出され、茄子漬けの誘惑に負けて食べておりました。
そんなある朝、地元の新聞をめくっておりますと紙面一面を使って「秋田、胃ガン第一位」なーんて載っているのであります。
まあ、そりゃあそうでしょうって感じです。
秋田は減塩運動の盛んな土地でもあるはずなのです。
お塩の変わりにお酢をつかった浅漬けを。
漬け物は美味しかった、伝統の味も大切だ。
でもでも、やはり、健康は大事なのだ。
漬け物をがりがり食べるのは秋田に居る間のみにしたのです。
梅干しの塩分は小梅2個で1.5g中位の梅で1個2gの含量です。
おさらいですが一日の塩分摂取量は10gなのです。
私の秋田に居る間の摂取量は相当な量でしょう。
減塩、減塩。
口をすっぱくして言わないとご飯に美味しい漬け物や梅干しの量はなかなか減らないみたいです。
(ネコ吉)