1999年02月
発行こぶし編集部
第127号
『「老人力」を持とう!!』
三田村 幌

・最近、このページは札幌の藤田院長と交代で書いているが、どうも年齢のせいか私は老人をテーマに書くようである。

今回も御多分に漏れず・・・しかし今回は、若者にも読んで欲しいナ!

■老いることは良いことだ!
「老い」をテーマに講演することがよくありますが、いつも注文は「いかに若くあるか」とか「呆けないためには」とか「老化防止」ですね。
でもどうも変です、これは。

この前提は「若いことは良いこと。
老化は悪いこと。
呆けは良くない」ということですね。

はたしてそうでしょうか。

自分が歳を重ね、また若者から老人までいろんな患者さんに出会って、最近の私の結論は「老いることは良いことだ」ということなのです。

私たちの人生の先輩には、胸を張って「私は歳をとった」と言ってほしいと思います。
「私は若い」などと言うときには恥ずかしそうに頭でも掻きながら言ってほしいのです。
私は最近このことを主張するようにしているのですが、どうもそれを端的に示すキーワードが無かった。

■「老人力」って?
そこに登場してくれたのが昨年の流行語大賞にも選ばれた「老人力」、うれしいですね。
どこかの首相に劣らぬ「ボキャ貧」に苦しんでいた私には「ダッチュ~ノ!」に負けないパワーを与えてくれた「老人力」!!
流行に敏感な若者ほど知ってほしい「老人力」、それを世間に知らしめたのは赤瀬川源平氏。
彼の書いた「老人力」(筑摩書房)を早速買って読んでみました。

老人力の基本は物忘れ=「忘却力」であり、氏によればその特徴に「物を忘れる、体力を弱める、足どりがおぼつかなくなる、よだれを垂らす、視力のソフトフォーカス、あるいは目の前の物の二重視、物語のくり返し、等々いろいろある」(最後の二つの特徴は私にはとうの昔からある)が、世間はそれを嫌がる。

しかし老人になって得られるこのパワーを、発見者のひとり赤瀬川氏は現代の人間に大切なものと指摘し、それが流行語になるには世間もそれに気づきはじめているのでしょう。

■「老人力」は悪くない!
無駄な記憶は忘れた方がよい。

適度に新鮮な感覚を持つには記憶の重みは邪魔。

力んでしまうよりも自然に力が抜けている方がよい。

人間少しはボケなきゃいけない。

硬直した思考は良くない。

最近はコンピュータまでもがファジー理論やカオス理論で老人力をつけてきた。

余裕のない現代に、老人力は人間の本来の「ユトリ」を示す。
「あーあ」という溜息。

いいかげんさ。
「とりあえず」。
趣味としての労働。
「テキトー」という「反努力」。
自然主義と他力本願。
アテもなくぶらぶらという、一種徘徊老人的フィーリング。

老人力のまだない若年時代はやはりどうしても論理に従う。

「まあいっか」というのが基本、論理で怒られたって別にいいというアバウト感覚で、芸術より趣味、思想より好き嫌い、理論の正しさよりも、自分の感覚が一番。

このように赤瀬川氏が示す老人力は現代の人間に失いかけているものを甦らせる。

■「老人力」の生理学的(?)基礎
しかし芸術家赤瀬川氏も「老人力というのはあくまで冗談なんだけど、もはや冗談じゃないのだ」と言い、今ひとつ積極的主張というよりは開き直りの感じがします。

先日TVで天野某というコラムニストも老人力を解説していましたが、どこか自己卑下的でした。

それでは困ります。

まだ少し老人力の足りない私は、ここをどうしても論理的、科学的に考えたくなる。

「忘れる」というのは記憶の薄れる消極的現象ではなく、意識下に押しやる積極的な作業であることはフロイドも言ってました。

ここではさらに理性と感性の関係を考えてみましょう。

■人間って??!!
皆さんは、人間が他の動物と異なる理性的生き物だと思っているでしょう。

しかしマックリーンという学者は「人間の脳はワニの脳『爬虫類脳』(脳幹)と、その上にオオカミの脳『古哺乳類脳』(大脳辺縁系)、さらにその上にサルの脳『新哺乳類脳』(新皮質)の三つで出来ている」と言います。

新皮質を駆使した理性と論理の「人間」と思っていても、皆さんに本能と欲望がその奥に力強く潜んでいるのです。

結局、理性も論理もその欲望を満たす道具になっていませんか?若いうちは特に、しかしこれもやむを得ないこと。

性欲や食欲に突き動かされて、いろいろ理由付け(合理化)するのが新皮質では。

歳をとって、こうした過剰な脳の働きが衰えてはじめて、理性的になれるのも道理です。

もちろん新皮質も多少衰えますが(これが極端であれば「痴呆症」という病気)、ワニやオオカミの脳がおとなしくなって、はじめて感性も理性と調和したものになるのです。

それが「老人力」というものではないでしょうか。

■みんな「老人力」を持とう!!
「人間は考える葦である」と哲学者パスカルは言いました。

しかし弱い葦が考える姿は、あらゆる欲望が低下したところで、理性と感性のバランスが良くなったところで実現するのです。

老人力は「マイナスの力」だと言いますが、こういう意味なのでしょう。

「人間」でありたいと思うとき、尊敬すべき「老人」をもう一度見なおすべきです。

そして私たちもそれをめざしたいものです。

●おわりに
いまひとつ私の最近の考えがこの小文では伝えきれていない気もします。

しかし、
機会あるごとにしつこくこの問題に触れましょう。
老人力を駆使して。

また、最近もうひとつ私が気づいたことがあります。

「歳を取ることは良いこと」ですが、若い時期にはまた「若いこと」にもその価値がある、ということです。

人生、どの時期にもその固有の価値があるのでしょう。
無理に老け込んでみたり、若作りしないで、自分の世代の価値を大切に生きたいものですね。